『新垣結衣の点取り占い』と言付けボイス

 主語がないから面白い!お笑い芸術『点取占い』において、『新垣結衣の点取り占い』と本家ワカエ紙工の『点取占い』との違いについて説明されています。

 俳句をも超える?『点取占い』の世界の記事で語りましたが、本家の『点取占い』は、完全にお笑い表現になっています。“神もどき”の占いのお告げに対して、ツッコミを入れるかのような姿勢が笑いをもたらします。一方、『新垣結衣の点取り占い』は、アイドルの着ボイス的な表現です。新垣結衣という“女神”の発言に対して、ニヤニヤで乗っかりたい姿勢が歓喜をもたらします。

 本家の『点取占い』は、誰のお告げ(占い)でも良いどころか、“神もどき”を特定させてはいけません。本家の形式だと、お告げ(占い)の発信者の顔が想定されてしまうと、「お前に言われたくないわ!」というように、ツッコミの対象が変わってしまいます。逆に、『新垣結衣の点取り占い』では、新垣結衣本人の発言という想定がないと成り立ちません。占い内容が、新垣結衣本人を連想できる範囲内での「良いガッキー」や「悪ガッキー」が必要なのです。

 『新垣結衣の点取り占い』は、お告げ(占い)の発信者本人の神的存在感が必要不可欠であり、その点では通常の宗教的な占いと共通します。占いの内容に神秘さがないゆえに、宗教性が表れないだけであって、主導者の発言に感情をゆだねる姿勢は信仰と呼べるものでしょう。ファン信者がは、音声が入ってなくても元気をくれるパワーボイスを、お告げ(占い)としてありがたがるのです。

 こうした言付けボイスは、ストレートに伝えようとする「がんばって」などの<感嘆文>よりも、受け手はパワーを感じるかもしれません。もちろん個人差なのですが、受け手に向かって直接的に発言することを想定している感嘆表現は、受け手が特定されているわけではないので、遠目から受け取る感じになる人が多いように気がします。逆に、占いという仲介を経て受け取る<叙述文>ならば、信じてみようという積極的な感じにならないでしょうか。

 双方向性がないコミュニケーションであっても、<感嘆文>か<叙述文>かによって、受け手の感覚に違いがあるように思います。

<多数派>そのものをリスクと評する内田樹氏

 情報コミュニティの分断化に続いて、「多数派であることのリスクについて(内田樹の研究室)」の記事が、ネット上の罵詈雑言と関連する問題なので、また内田樹氏の記事を扱わせていただきます。

 まず、「あるべき民主主義」を提示せずに、「少数派のリスク問題」にも触れず、「多数派のリスク問題」だけを取り扱っている点が、ものすごく残念です。〝リスク〟という言葉まで使っておきながら、こういうアンバランスな記事だと、政治的スタンスを隠して、政治的批判をしているかのような卑怯さを感じてしまいます。

〝私は政策の当否について論じているのではない。「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。〟

 こういうレトリックを目にすると、さらにがっかりですね。強いられない民主主義なんてないんだけど・・・


 強制かどうかはさておき、「結果としての多数派のリスク」とは、個人の責任を解除してしまうので、実現不可能な空論を選好する恐れがあるというのが内田氏の指摘です。確かに、<多数派>はサイレントマジョリティであり、詳細に現実を理解することへの無関心さがあるでしょう。

 <多数派>は、変化を望むかそうでないかの判断をする≪主意主義≫であり、深く知ろうとする≪主知主義≫ではないのかもしれません。だからといって、<多数派>だけに≪主意主義≫へ陥るリスクがあるという論理は全く根拠がありません。

 内田によると、<少数派>は、無視されるのを恐れて情理を尽くして語るが、<多数派>は、暗黙の同意に甘えて粗暴に語るのだそうだ。よって、<少数派>の意見の方が、聴く価値があるという論理なのですが、意義ある討論が成立する場においては、こういう状況は絶対に成立しません。討論といえるような会話の場では、<多数派>や<少数派>に関係なく、誰もが情理を尽くして主張するはずです。

 内田氏が想定しているのは、意義のない討論の場であり、それを強制だの言っているのだから可笑しいのです。ネット上の罵詈雑言は、意見を託す【言付け】であり、考える討論ではありません。【言付け】は、結論だけを叫ぶデモ活動みたいなものです。民主主義のデモ活動を認めるならば、ネット上に集約される<多数派>意見に対して、寛容になっても良いのではないでしょうか。


 ネットの時代になって、<多数派>が『サイレントマジョリティ』から『ノイジーマジョリティ』に変化しただけです。知識人とされる<少数派>のごり押しができなくなったのかもしれませんが、それは<多数派>の空洞化ではなく、<多数派>の反発ではないでしょうか。

 あらゆる意見が知的対等であるという結果の<少数派>であり、優れた意見が知的優越するとう結果の<少数派>ではありません。無条件に<少数派>を賞賛するのは、<多数派>を説得できない理由が常に<多数派>側にあるという傲慢につながります。<少数派>の論理だけを尊重する卑怯な相対主義は、<少数派>であることで存在価値が高まると信じる知識人の驕りにすぎません。 

 また、<少数派>を特別扱いしてしまうと、対等な議論を妨げる恐れがあります。<少数派>意見の質が、常に高いわけではなく、社会全体ではなく自己利益を求める強欲な<少数派>の場合があるからです。社会全体を考える<多数派>と自己利益を考える<少数派>の対立において、無条件に<少数派>意見を尊重することは出来ません。<少数派>を美化した結果、醜悪な利権が生まれてしまうというリスクが<少数派>にはあるのです。

 一方で、<多数派>のリスクは、全体の変化が大きくなることであり、成功のメリットも失敗のデメリットも大きく目立ってしまいます。何かを変えようとする≪主意主義≫は、失敗した場合の害悪も大きいので、変化を求める<多数派>の方に大きなリスクを感じてしまいます。しかし、大きな変化のない歴史はなく、<多数派>が動かなければ歴史は変わりません。内田氏は、スターリンヒトラー毛沢東などの圧倒的<多数派>支持による失敗ばかりを列挙されていますが、成功例である数多くの革命などはどう評価されるのでしょうか。

 <多数派>の力が必要とされる大きな変化は、失敗も大きくなるので議論の取りこぼしに注意しなければならない、というのが普通の指摘だと私は思います。にもかかわらず、変化を求める<多数派>そのものをリスクと評する内田氏の議論には、<少数派>既得権の正当化主張の疑念を持ってしまいますね。。。

「情報リテラシー(メタ認知)」による階層化と「情報価値」によるコミュニティの分断化

 先日、「ネット上の呪詛」について批判的な記事を書きましたが、その続編にあたるような記事「情報リテラシーについて(内田樹の研究室)」がありましたので触れさせてもらいます。

 内容は、ネット社会における情報の広がりを『階層化』というよりはむしろ『原子化』と表現し、「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報の獲得能力の低下を懸念するものです。前回の「ネット上の発言の劣化(内田樹の研究室)」の記事に対して、元々掲示板などでの発言は結論だらけの【言付け】ばかりなのは仕方がないし、その結論だらけの発言を軽く扱う『情報の階層化』という表現への反発を私は書きました。


 しかし、今回の「情報リテラシーについて(内田樹の研究室)」の記事を読むと、どうやら私の解釈は全く間違っていたようです。「情報の価値そのもの」ではなく、「情報を分別するメタ情報の有無」によって、『情報の階層化』が発生するというのが正しい内容であり、私は前者の「情報の価値そのもの」による階層化だとばかり思っていました。「情報の価値」によって、『情報の階層化』を論じているように解釈したので、上から目線の印象しか持てませんでした。

情報リテラシーというのは、自分が受信している情報をつねに「疑え」ということではない。〟
情報リテラシーとは、一般に信じられているように、「精度の高い情報と、そうでない情報を見分ける力」のことではない。〟
〝私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。〟


 このように、情報リテラシーには情報を分別するメタ認知能力が重要であることを説き、そのメタ認知が個人ではなく集合による幅広い知性によって可能になるとしています。そして、メタ認知能力(リテラシー)のない人間が、「反証可能性」を持った「公共的な言論の場」が形成するネットワークから切り離されてしまって「情報難民」になるという論理が出てくるのですが、このあたりから納得がいきません。

 メタ認知リテラシー)にとって、集合の知能が大切である点については納得できるのですが、メタ認知リテラシー)は、「分かったような気になれるだけ」であって、必ずしも役立つ情報にはつながりません。メタ認知リテラシー)による「ガイダンス」的な情報を得ることで、多少の常識を得ることができるでしょうが、本人にとってどれほど有効であるかという問題があります。


 例えば、消費者教育に関するような情報を、「ガイダンス」的に習得したところで、必ずしも役に立つとは思えません。良質な役立つ情報を得られる「情報貴族」と知るべき情報を知らない「情報難民」との違いは、「情報アンテナ」や「情報活用能力」の問題であって、メタ認知能力(リテラシー)とは関係ないように思います。

 結局、「情報価値」による問題を「メタ情報」に原因を求めてしまっているから、内田樹氏の理論が納得できないのでしょう。ネット社会におけるコミュニティの分断化は、「メタ情報による階層化」ではなく、「情報価値による階層化(分断化)」です。ネットコミュニティの分断化は、<情報の入力環境>よりも、<情報の出力環境>の方にあるのであって、『サイレントマジョリティ』が『ノイジーマジョリティ』になっただけだと思います。

〝「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。〟

〝「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。〟

 単純に同調できるネタ情報は、ファン心理の目線で扱えば、情報価値がある役立つ情報なのです。「陰謀史観」が出るのは情報不足なだけであり、マスメディアを「世論操作」だと反発するのは価値観が異なるからにすぎません。「情報には質の差がある」ので、メタ情報によって分かりやすく集約するのは大切ですが、ネットコミュニティの分断化は、メタ情報によってどうこうできるものではないと思います。

【言付け】に見られる非言語コミュニケーション「顔文字」

 【言付け】は、話題の共通認識を前提にするものです。しかし、現実の【言付け】は、何に対しての発言内容なのかが曖昧になり、誤解だらけの会話に陥ってしまいます。顔の見えない【言付け】では、非言語コミュニケーションが不足するのが大きな原因です。


 非言語の重要性を説明するものに、「メラビアンの法則」があります。発し手が放つ「視覚表情」「聴覚表情」「言語情報」において、解釈できる情報がそれぞれ矛盾する場合に、受け手はどの情報に優位性を与えて解釈するかという実験です。

 受け手の解釈は、「視覚表情」が55%「聴覚表情」が38%「言語情報」が7% という結果だったそうです。本音を読み取る順位と考えれば、すんなり納得してしまう割合です。これは、信用する優先度であり、短い情報で早く信用させる順位でもあります。全てを「言語情報」で信用確認すると、信用創造の効率性が下がってしまいます。

 このように、非言語によって形成される表情が、言語内容よりも優位性があるのです。さらに、印象と結び付けて理解する対面会話との比較を考えれば、印象が安定しなければ、誤解どころか内容を全く理解できないと思います。そもそも、人間同士の会話は、内容を深く理解する場合はとても少なく、〝挨拶〟の延長のような情報交換が大半です。〝挨拶〟のように、印象さえ表現できたらコミュニケーションは成立するのです。

 そこで、とりあえず印象をつけるのが「顔文字」です。顔の表情を付けることで、発言全般のスタンスを示すことができます。ダブルバインドの表情までも、取り揃えているので、「顔文字」を入れることで、感情や主観(意思)を込めたコミュニケーションがやっと可能になります。【言付け】にも〝挨拶〟が必要と考えれば、「顔文字」を大切に扱うようになるのではないでしょうか。。。

911テロへの〝祈り〟と『明日の言付け』

 アメリカ同時多発テロ事件から10周年です。この事件は、「宗教対立の始まり」になったような気がします。過激なテロ思想を持つ人間は僅かにも関わらず、欧米社会の不安不信を恐ろしく高めました。「テロとの戦い」は終わる様子がなく、アメリカは過大な安全コスト増を強いられています。

 一方、宗教対立の当事者ではない日本社会は、安全コスト増加があまり見られず、「一つのテロ事件」という見方ができているような気がします。つまり、テロが連鎖しないことへの希望が持ちやすい〝立ち位置〟にあるのです。

 『明日の言付け(一青窈)』【著者に会いたい】

 一青窈さんの出版本に『明日の言付け』があります。“言付け”の検索で唯一出てくる出版物です。本を読んだわけでないのですが、どんな形でもいいから、好きな人には思いを伝えてほしくて、【言付け】さえすれば明日に伝わっていく、という考えで付けたタイトルが『明日の言付け』らしいです。

 一青窈さんの大ヒット曲『ハナミズキ』は、「9・11テロ」への想いが歌になったと言われています。後に、『ハナミズキ』をモチーフにした映画では、純愛ラブストーリーになっていますので、「9・11テロ」との結び付きばかりに偏るのを望んでいないのかもしれません。

 『ハナミズキ』は、愛する人の幸せを願う祈りの歌であるという前提で語りますが、「テロによる戦争連鎖」に対抗して、「やわらかな気持ちが連鎖してほしい」という思いを、ハナミズキ(花水木)に託して表現した〝祈り〟の視点が含まれています。

 「やわらかな気持ちが連鎖してほしい」という〝祈り〟には、「やさしい気持ちを持てるはず」という‘人類の進化’を願う理想が込められています。「今後、このようなことが起こりませんように」のような〝反省の祈り〟ではなく、誰もが参加できる〝生きる希望の祈り〟を歌うことができたのは、恐怖の連鎖を断ち切る自信があったからだと思います。

 目前で相手からの脅迫を受けている中で、恐怖の連鎖を断ち切るのは非常に難しく、単なる現実逃避に陥ってしまう危険があります。対話が出来る相手であれば、相手からの脅迫を抑止できるのですが、そういう関係でなければ難しいでしょう。このように考える私は、対称性のないテロ戦争が終わるようには思えません。

 個人の生き方なら良いのですが、理想の言付けを信じれば、社会の未来を変えられるという理念は、ある意味でのイデオロギー志向です。911テロ後の世界を見て、【言付け】による希望は大切ですが、それだけでは難しいというのをつくづく考えさせられました。自分の結論を述べて盛り上がる【言付け】は、自分が単純に信じられるものばかりではないのです。。。

『流言』を防ぐ、【言付け(付言)】と【言伝(伝言)】の峻別

 『流言』が拡散しやすいのは、結論ばかりを述べる「ツイッター」「掲示板」などの短文メディアです。ブログなどの長文メディアでは、論拠や理由が述べてあることが多いので、ブログ記事自体を発信源として扱うことが可能になります。検証プロセスが確保できる情報は、『噂』や『デマ情報』であっても、『流言』とは呼べないものです。

 『流言』は、‘情報経路’を尊重するがあまり、自分なりの検証が行えず、結論だけを信じる場合に広がります。‘情報経路’を尊重するのは、人間関係に縛られるからです。さらに、ネットの場合は、盛り上がりたいので大同反応が強くなってしまい、『流言』を楽しむ傾向さえ見られます。


 ‘情報経路’が厳格であるはずの組織において、『流言』を広めてしまう現象は「伝言ゲーム」と揶揄されます。東日本大震災による福島原発事故において、政府内に間抜けな「伝言ゲーム」が発生していたようです。【言伝(伝言)】は、意思や意向を排除した事実だけを伝えるものです。意思や意向を含めたものは、【言付け(付言)】であり、“らしい”という推量が込められるものです。

 「伝言ゲーム」に対して、あえて「付言ゲーム」というものを定義してみると、話題の対象がどのような偏見を持たれているかを焙り出すものです。「どうせ〜じゃない」みたいな帳尻あわせの推量を発見するには、有意義なものです。『デマ情報』の分析には、「伝言ゲーム」と「付言ゲーム」の両方の視点が大切だと言えるでしょう。


 そもそも、『流言』を広げてしまうのは、知らないことで損をするという‘格差不安’が第一の要因であり、‘情報経路’は二番目の要因です。‘格差不安’がなければ、‘情報経路’が混乱しても、修正が容易な気がします。‘格差不安’とは、他人への不信感であり、裏切りの恐怖が、牽制するかのような『流言』を生み出してしまいます。

 福島原発事故における『流言』も、東京電力への不信感が生んだものであるという解釈を明記した反省が必要だと思います。いずれにせよ、事実だけの【言伝(伝言)】と意思を含む【言付け(付言)】を峻別する意識を持ったコミュニケーションを心掛けなければなりません。

【言付け】するツイッターでは議論が出来ない理由

 「twitterアカウントを消しました。」という内容の記事を読んだのですが、議論的なことに悩まされたのが原因のようです。短文メディアは、結論だけを述べるものですし、まともな議論が出来ないのは当然です。いろんな発想による結論が連なることが楽しいのであって、不特定多数との議論が面白いはずがありません。

 発見メディアであるはずが、討論メディアになってしまうのは、固定ID(実名または仮名)に原因があります。批判に対して反論証明しないと、固定IDの存在が問われてしまい、議論に巻き込まれてしまうのです。そもそも、有名人が持論を主張してあれほど炎上するのですから、一般人の固定ID(実名または仮名)はさらに激しい攻撃を受けるのでしょう。

 固定IDであっても、話題(議論の場)が制限されていなければ、議論は成り立ちません。どこまで共有できるかによって制約される議論は、特定の相手と楽しむものです。不特定多数を相手に議論に臨むのは無意味であり、議論の相手を見つける挨拶メディアという位置づけが妥当だと思います。

 ツイッターは、一方的な思いを交付する【言付け】です。議論と結論の峻別を忘れてはいけません。