<多数派>そのものをリスクと評する内田樹氏

 情報コミュニティの分断化に続いて、「多数派であることのリスクについて(内田樹の研究室)」の記事が、ネット上の罵詈雑言と関連する問題なので、また内田樹氏の記事を扱わせていただきます。

 まず、「あるべき民主主義」を提示せずに、「少数派のリスク問題」にも触れず、「多数派のリスク問題」だけを取り扱っている点が、ものすごく残念です。〝リスク〟という言葉まで使っておきながら、こういうアンバランスな記事だと、政治的スタンスを隠して、政治的批判をしているかのような卑怯さを感じてしまいます。

〝私は政策の当否について論じているのではない。「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。〟

 こういうレトリックを目にすると、さらにがっかりですね。強いられない民主主義なんてないんだけど・・・


 強制かどうかはさておき、「結果としての多数派のリスク」とは、個人の責任を解除してしまうので、実現不可能な空論を選好する恐れがあるというのが内田氏の指摘です。確かに、<多数派>はサイレントマジョリティであり、詳細に現実を理解することへの無関心さがあるでしょう。

 <多数派>は、変化を望むかそうでないかの判断をする≪主意主義≫であり、深く知ろうとする≪主知主義≫ではないのかもしれません。だからといって、<多数派>だけに≪主意主義≫へ陥るリスクがあるという論理は全く根拠がありません。

 内田によると、<少数派>は、無視されるのを恐れて情理を尽くして語るが、<多数派>は、暗黙の同意に甘えて粗暴に語るのだそうだ。よって、<少数派>の意見の方が、聴く価値があるという論理なのですが、意義ある討論が成立する場においては、こういう状況は絶対に成立しません。討論といえるような会話の場では、<多数派>や<少数派>に関係なく、誰もが情理を尽くして主張するはずです。

 内田氏が想定しているのは、意義のない討論の場であり、それを強制だの言っているのだから可笑しいのです。ネット上の罵詈雑言は、意見を託す【言付け】であり、考える討論ではありません。【言付け】は、結論だけを叫ぶデモ活動みたいなものです。民主主義のデモ活動を認めるならば、ネット上に集約される<多数派>意見に対して、寛容になっても良いのではないでしょうか。


 ネットの時代になって、<多数派>が『サイレントマジョリティ』から『ノイジーマジョリティ』に変化しただけです。知識人とされる<少数派>のごり押しができなくなったのかもしれませんが、それは<多数派>の空洞化ではなく、<多数派>の反発ではないでしょうか。

 あらゆる意見が知的対等であるという結果の<少数派>であり、優れた意見が知的優越するとう結果の<少数派>ではありません。無条件に<少数派>を賞賛するのは、<多数派>を説得できない理由が常に<多数派>側にあるという傲慢につながります。<少数派>の論理だけを尊重する卑怯な相対主義は、<少数派>であることで存在価値が高まると信じる知識人の驕りにすぎません。 

 また、<少数派>を特別扱いしてしまうと、対等な議論を妨げる恐れがあります。<少数派>意見の質が、常に高いわけではなく、社会全体ではなく自己利益を求める強欲な<少数派>の場合があるからです。社会全体を考える<多数派>と自己利益を考える<少数派>の対立において、無条件に<少数派>意見を尊重することは出来ません。<少数派>を美化した結果、醜悪な利権が生まれてしまうというリスクが<少数派>にはあるのです。

 一方で、<多数派>のリスクは、全体の変化が大きくなることであり、成功のメリットも失敗のデメリットも大きく目立ってしまいます。何かを変えようとする≪主意主義≫は、失敗した場合の害悪も大きいので、変化を求める<多数派>の方に大きなリスクを感じてしまいます。しかし、大きな変化のない歴史はなく、<多数派>が動かなければ歴史は変わりません。内田氏は、スターリンヒトラー毛沢東などの圧倒的<多数派>支持による失敗ばかりを列挙されていますが、成功例である数多くの革命などはどう評価されるのでしょうか。

 <多数派>の力が必要とされる大きな変化は、失敗も大きくなるので議論の取りこぼしに注意しなければならない、というのが普通の指摘だと私は思います。にもかかわらず、変化を求める<多数派>そのものをリスクと評する内田氏の議論には、<少数派>既得権の正当化主張の疑念を持ってしまいますね。。。