相対評価に反対するのは、憲法9条が原因だと思っています

あまりにも愕然とする記事を見つけたので引用します。

信濃毎日新聞 斜面 02月27日(月)

小学校の担任はかっぷくのいい女の先生で、よくたばこを買いに行かされた。中学の先生は何かにつけて生徒をたたき、力で押さえつけた。隠れて酒を飲んだ生徒を居酒屋に連れ出し、飲み方を教えてくれた東京の高校教師もいた
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大阪府が提出した教育基本条例案に照らすと、いま挙げた先生たちは真っ先に首かなと思う。けれど、子どもなりに先生たちの長所と短所を見つけ、人間くささを感じていた。同窓会では、素行不良だった者も優等生だった者も愉快げに教師との思い出を語る
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大阪の条例は厳しい。校長の評価で「不適格」となった教員を指導し、改善がみられなければ免職にするとしている。さらに、3年続けて定員割れとなった高校は再編整備の対象とするなど競争原理を教育の場に持ち込んでいる
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文部科学省教育委員会を中心とする現在の教育制度に不満を抱く人は多い。いまのままでいいとは思わないが、教員を規則で縛ることで良くなるものではないだろう。格差の拡大、地域や家庭の教育力の低下といった幅広い問題に目を配らなければ、教育再生の道筋は見えてこない
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府知事の決める教育目標に従い、先生が評価を気にしながら生徒の尻をたたく。ピリピリした教育のしわ寄せを受けるのは子どもたちだ。先生たちが気持ちにゆとりを持って個性を発揮してくれるほうが、学びも豊かになるに違いない。


こんな傲慢が許されていいんでしょうかね。自らの身分保障だけを考えた組合独裁

 評価経済といわれる時代に、相対評価を排除しようとするのは絶対主義の特権階級(独裁階級)の発想です。そもそも、障碍者などの弱い立場の人は、相対評価を補強することで生活支援ができるのであり、絶対評価では却って放置されてしまうものです。相対評価の否定は、評価排除という民主主義の否定であり、極悪非道としか思えません。

 親御や生徒だって、教師を競争させたいと思っているはず。役に立たない知識の「ごり押し」ではなく、意欲を持って学べる教育をしてほしいもの。塾に行かなくてもいいくらい面白い授業をしてほしいもの。競争するのは生徒ではなく教師のはずであり、市場社会の常識です。

 にもかかわらず、生徒の競争と教師の競争を同列に並べたうえで、「生徒のため」とか言い出すような見識の人に、社会の本質が語れるのでしょうか。そもそも、ダメな教師の存在がどれほど生徒にとって不幸なことなのか考えもしないところがすごいです。


 観念的に考えるとして、市場原理を持たない社会で、何ごとも選ばない人間が、「競争反対」というならば道理は分かる。しかし、市場社会の恩恵を満喫する生活の中で、自らが他人(商品)を選ぶことをしておきながら、自分を他人が選ぶことは許されないというのは全く卑怯なルールだ。

 「私人としての評価」と「公人(職業)としての評価」を分離するからこそ、人間は自由を感じれるものです。そして、「役割が定まってない自分」と「役割ありきの自分」を分けれるからこそ、役割に応じて他人の意見を聞くということができるわけです。評価対象である役割を担うことで、「好きでもない人間のため」という行動も可能になります。評価を無視してしまうと、自分の感覚を押し付けるだけです。そりゃ、さぞかし気持ちいいことでしょう。


 それと、「ゆとり」というのも全く可笑しな言葉です。競争で落ちこぼれた人間を救うのは、「ゆとり」ではなく「愛」ではないでしょうか。這い上がれないからこそ、意欲や能力の向上を助けるための「愛」が必要なはず。それが、競争自体をやめちまえば、落ちこぼれなんかを助ける必要がないと言わんばかり。自分の安全保障を確保するために、現実の戦争を想定排除することから始める9条信者と同じです。


「教師どもが、生徒のためと言いつつ、自らへの評価を許しません。全ては憲法9条が原因だと思っています。」