「情報リテラシー(メタ認知)」による階層化と「情報価値」によるコミュニティの分断化

 先日、「ネット上の呪詛」について批判的な記事を書きましたが、その続編にあたるような記事「情報リテラシーについて(内田樹の研究室)」がありましたので触れさせてもらいます。

 内容は、ネット社会における情報の広がりを『階層化』というよりはむしろ『原子化』と表現し、「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報の獲得能力の低下を懸念するものです。前回の「ネット上の発言の劣化(内田樹の研究室)」の記事に対して、元々掲示板などでの発言は結論だらけの【言付け】ばかりなのは仕方がないし、その結論だらけの発言を軽く扱う『情報の階層化』という表現への反発を私は書きました。


 しかし、今回の「情報リテラシーについて(内田樹の研究室)」の記事を読むと、どうやら私の解釈は全く間違っていたようです。「情報の価値そのもの」ではなく、「情報を分別するメタ情報の有無」によって、『情報の階層化』が発生するというのが正しい内容であり、私は前者の「情報の価値そのもの」による階層化だとばかり思っていました。「情報の価値」によって、『情報の階層化』を論じているように解釈したので、上から目線の印象しか持てませんでした。

情報リテラシーというのは、自分が受信している情報をつねに「疑え」ということではない。〟
情報リテラシーとは、一般に信じられているように、「精度の高い情報と、そうでない情報を見分ける力」のことではない。〟
〝私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。〟


 このように、情報リテラシーには情報を分別するメタ認知能力が重要であることを説き、そのメタ認知が個人ではなく集合による幅広い知性によって可能になるとしています。そして、メタ認知能力(リテラシー)のない人間が、「反証可能性」を持った「公共的な言論の場」が形成するネットワークから切り離されてしまって「情報難民」になるという論理が出てくるのですが、このあたりから納得がいきません。

 メタ認知リテラシー)にとって、集合の知能が大切である点については納得できるのですが、メタ認知リテラシー)は、「分かったような気になれるだけ」であって、必ずしも役立つ情報にはつながりません。メタ認知リテラシー)による「ガイダンス」的な情報を得ることで、多少の常識を得ることができるでしょうが、本人にとってどれほど有効であるかという問題があります。


 例えば、消費者教育に関するような情報を、「ガイダンス」的に習得したところで、必ずしも役に立つとは思えません。良質な役立つ情報を得られる「情報貴族」と知るべき情報を知らない「情報難民」との違いは、「情報アンテナ」や「情報活用能力」の問題であって、メタ認知能力(リテラシー)とは関係ないように思います。

 結局、「情報価値」による問題を「メタ情報」に原因を求めてしまっているから、内田樹氏の理論が納得できないのでしょう。ネット社会におけるコミュニティの分断化は、「メタ情報による階層化」ではなく、「情報価値による階層化(分断化)」です。ネットコミュニティの分断化は、<情報の入力環境>よりも、<情報の出力環境>の方にあるのであって、『サイレントマジョリティ』が『ノイジーマジョリティ』になっただけだと思います。

〝「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。〟

〝「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。〟

 単純に同調できるネタ情報は、ファン心理の目線で扱えば、情報価値がある役立つ情報なのです。「陰謀史観」が出るのは情報不足なだけであり、マスメディアを「世論操作」だと反発するのは価値観が異なるからにすぎません。「情報には質の差がある」ので、メタ情報によって分かりやすく集約するのは大切ですが、ネットコミュニティの分断化は、メタ情報によってどうこうできるものではないと思います。