教育の競争を否定する人は、教育の質を否定する人

 反ハシズムの論客、内田樹氏のブログ記事です。学問の為の教育論と知識技術の為の教育論を分けずに、論じていらっしゃいます。「目的」が定まっていないから「効率」が出せないだけではないでしょうか。いつも思うんですが、生徒ではなく、教師の為の競争教育否定でしかないですよね。
 
 不便さと教育(内田樹の研究室)

教育と効率は本質的になじまない。というのは、効率というのは、「単位時間内の仕事量」を以て考量するものであるが、教育がそのアウトカムを計測するときの時間の幅は原理的に「その人が死ぬまで」というもので、「単位時間」を切り出すことができないからである。

学校教育の相手は生身の人間である。「出来の悪い教育プログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。教育において「実験」は許されない。だから、教育機関の卓越性は科学的には考量不能なのである。

私が30年の教師生活の経験から言えることは、教育において、教師からの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。

自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
学びというのはそのようなしかたでダイナミックに構造化されている。学びが力動的で、時間的な現象である限り、私たちが生きる一瞬ごとに、私たちがかつて受けた教育の意味は改訂され続けているのである。私たちがかつて受けた教育の意味が振り返るごとに改訂され、そのつど深みと厚みを増し、そのつどそれまで気づかれなかった相をあらわにするということ以上に教育的な事況というものがあるだろうか。
「効率」というのはもう変化することのない価値(人間的尺度からすれば「死物」としての価値)を抽象的に切り出された単位時間で除して得られるものである。そのようなものを数値的に考量したり、比較したりすることに学びにおいてどれほどの意味があるのか、もうこれ以上の言葉を継ぐ必要はないだろう。

 何を学んだかの学問は各々の勝手、知識技術を学ぶのは生徒共通の目的。知識技術を学ぶのに「効率」は確実に存在します。

 教育に競争原理と言い出したのは、評価から解放されたのを良いことに傲慢の局地にいる教師どもを管理するためでしょう。

 ハシズムに反対する人間って、ホント傲慢な人が多いんですよね。大衆による多数決原理や市場原理を排除しないでいただきたいものです。