カオスの脅威ばかり煽る「コスモセントリズム」の反ハシズム

 「劇化する政治過程・カオス化する社会(内田樹の研究室)」を読んだ感想です。反ハシズム陣営の人は、政治的意志で破壊しようとする部分だけに注目して、政治的に放置され破壊もしくは排除されていっている部分には無関心のようです。ネオリベラリズムの政策論の是非ではなく、ネオリベ信者の精神状態を否定する議論ばかりが目立ちます。「劇的破壊展開(カオス)」という脅し文句はいい加減にしてもらいたいものです。

際だった失政がないにもかかわらず、「劇的に」支持率が低下したのは、有権者たちが今政治過程に求めているのは、「劇的なもの」それ自体だからである、というのが私の提出する仮説である。
彼らは「劇的に支持率が低下した」という事実そのもののうちに、「政治過程に期待するもの」をすでに見出して、それなりの「満足」を得ている、というのが私の仮説である。
「劇的な破綻」、「劇的な制度崩壊」、「劇的な失敗」・・・そういうものが「緩慢な破綻」や「進行の遅い制度崩壊」や「弥縫策が奏功しない失敗」よりも選好されている。
人間的諸活動のtheatricalization (劇化)と呼んでもいい。
社会制度が破綻することによって自分自身が「いずれ」受けるはずの苦しみよりも、社会制度が劇的に破綻するのを「今」鑑賞できる愉悦の方が優先されている。

天下を狙うポピュリストやデマゴーグがわらわらと出てきて、総選挙報道は諸勢力の合従連衡を論じて、ヴァラエティショー的な興奮で沸き立つだろう。
人々は「それ」が見たいのである。その気持ちは私にもわかる。
でも、そんな政治過程の「劇化」をおもしろおかしく享受している間、日本の政治過程は停止し、傷みきった制度はさらに崩れてゆく。
そのことについては、誰も考えないようにしている。考えても仕方がないからである。それよりは「目先の楽しみ」だ。
とりあえず長い間社会の柱石であった諸制度ががらがらと壊れて行くさまを砂かぶりで見ることだけはできる。
屋根が崩れ、柱が折れたあと、どうやって雨露をしのぐのか、それについては考えない。それよりも屋根が崩れ、柱が折れるのを眺める爽快感を楽しみたいのである。
制度が崩れるのを見る権利くらい自分にはあると思っている人が増えている。
「制度はオレに何もしてくれなかった。だから、そんなものが崩れたって、オレはすこしも困らない」そう思っている人たちがたぶん増えている。

 劇的な変化は、秩序(コスモス)移行期のバックアップを用意しないから、カオスしかもたらさない。中立を気取ったマスコミが、政治を他人事のように劇場報道するように、各々の国民が既存体制破壊がもたらす不幸に気づいていないと言いたいようです。

 古いコスモスを破壊して、新しいコスモスを作ることが、模索するカオスしか生み出さないように言っていますが、政治的意志として決めたものは尊重して欲しいものです。少なくとも、新しいコスモスを定めている限りは、カオスを許容することはできるはずです。しかも、歴史を遡って現行のコスモスを否定するものではなく、時代に合わなくなったコスモスの中心を修正する程度の改革です。

 三位一体のように分化していても、あらゆるコスモス(秩序)には中心原理と呼べるものは必ずあります。その中心原理によって、得をしている人とあまり得をしてしない人が存在して、社会の変化に応じて得する度合いが大きく変化します。得をしている人とあまり得をしてしない人の両方が利己的な欲望(嫉妬など)を持っており、お互いの利己的欲望を実現させるための共有できる中心原理を築こうとします。

 共有が出来なくなれば、ある中心原理によって得をしてしない人が、得をしている人への怒りによって、役割交代などのコスモス転換を迫られます。「必要は発明の母」と言われますが、社会は得をしていない人によって改革されていくものです。

 そして、古いフォーマットを捨てようとする移行期において、何らかのバックアップシステムなどが大きく役に立つことなど見たことがありません。商品やサービスの世代交代には、常にカオス(フォーマットの乱立など)が生まれますが、移行期のバックアップシステムは言い訳程度の役割しか果たせないものばかりです。新たなコスモスへの方向性が定まっているので、カオスへの理解が高まり、不平不満が小さくなるというものでしかありません。つまり、移行期のバックアップシステムは幻想であり、大抵のものは捨てるしかないのです。


 「コスモセントリズム」という言葉がありますが、グローバリズムのように、コスモスは押し付けの一つでしかありません。グローバリズムが生み出す不幸についてはよく報道されますが、納得いかない理由で出来たコスモス(秩序)によって、支配されている不幸もあるのです。究極的にいえば、人々は納得いかない評価にさらされて生きているのであって、誰かにとってのコスモスが、誰かにとってのカオスでもあるのです。

 あるべきコスモス論を展開せずに、カオスの危険ばかり煽る主張は、ある人(既得権益者)にとってのカオスが、全体のカオスのように印象操作しているだけにすぎません。TPPなどへの参加を煽る人は、グローバリズム秩序(コスモス)に追従しないと不幸になると叫びますが、こうした中身のない議論とカオス脅威論は全く同じです。

 ネット空間は、カオス状態で大部分を占めていますが、誰もが全て危険なものとは思っていないはずです。誰かにとってのカオスが、誰かにとってのコスモスになっている場合があるからです。世代間格差などの問題を隠蔽して、カオスの危険ばかり煽る「コスモセントリズム」はやめてほしいものです。

辺境に潜むネット批判者による「ノイジーパフォーマンス」

 先の大阪市長選挙で敗れた平松邦夫氏の大阪市長特別顧問であった内田樹氏が、辺境でネット不信を叫んでいらっしゃるようです。 「『辺境ラジオ』で話したこと(内田樹の研究室)」を読むと、いつもながらの上から目線で、若者の味方を装った偽善的批判を展開しています。選挙で敗れた恨み節が相俟って、橋下徹氏の支持者までも精神的に病んでると言いたいようです。反ハシズムで論陣を張った批判内容の方が、ネットの罵倒レベルそのものであり、反ハシズムの方がよっぽど病んでいると思うんですが、可笑しいのはいつも騙される大衆の方らしいです(笑)。

政治過程の劣化はすさまじいが、これまでそれなりに(ぎりぎり)合理的にふるまってきたように経済活動についても、ビジネスマンたちの思考は混濁し、5年10年というスパンについて見通しを述べられる状態にない。思考停止している人間の特徴はすぐに「待ったなし」と言うのでわかる。「待ったなし」というのは「選択肢の適否について思考する時間がない(だから、とりあえず一番でかい声を出している人間の言葉に従う)」ということしか意味していない。

名越先生が昨日も指摘されていたが、抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は必ず間違う」という心理学的経験則に従うなら、ネット上で攻撃的な口調で語られている言明のほとんどは構造的に間違っていることになる。誤解して欲しくないが「間違う」というのは、その時点での整合性の欠如や論理の破綻やデータの間違いのことではない(そういう場合も多々あるが)。そうではなくて、「間違った言葉」というのは結果的にその言葉を発した人間を不幸な生き方へ導く言葉のことである。抑鬱的な気分の中で、攻撃的に口にされた言葉は事実認知的に「間違っている」のではなく、遂行的に「間違っている」のである。

「ゆっくり考えている余裕なんかないんだよ。事態は待ったなしなんだ」と怒号する人々がきっといると思うけれど、彼ら自分たちが「古いシステム」と一緒に「歴史のゴミ箱」に投じられるハイリスクを冒していることに気づいた方がいいと思う。いや、ほんとに心配してるんです。


 引用部分のとおり、大阪都構想における是々非々の議論を訴えるならまだしも、橋下徹氏を支持する大衆が病んでいるというご意見です。既存の制度を変えたいという大衆の思いが、抑鬱的かつ攻撃的な気分にすぎないという解釈には甚だ疑問なのですが、仮に抑鬱的かつ攻撃的な気分であったとしても、抑鬱状態の判断が必ず間違うのでしょうか。
 
 「抑鬱状態でのあらゆる判断が不幸な生き方しかもたらさない」という呪い文句は、自主性を奪うマインドコントロールにすぎません。もし継続断念の判断までも不幸な生き方だというのであれば、人は抑鬱状態から自力回復できないということになってしまいます。抑鬱状態を克服するには、勇気を持って継続断念の選択を決断する以外ありません。逆に、抑鬱状態で中途半端に継続するからこそ、手抜きなどの失敗が増えてしまって、間違いだらけの結果をもたらします。

 抑鬱状態の自力判断を急いだ方が良い場合もあるかもしれませんし、拙速な継続断念によって多くのものを失ったとしても、「古い習慣」から解放されることで、以前よりも束縛のない判断が出来るようになるかもしれません。「抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は必ず間違う」という法則は、継続の中での判断に適用できても、「古い習慣」をまるごと放棄するような継続断念の判断にも必ず適用できるとは限らないと思います。「抑鬱状態である大衆は何も判断すべきではない」とでも言いたいのでしょうか。

 「思考停止している人間の特徴は待ったなし」という法則も然りです。「先送りで何もしないのも思考停止」であるはずなのに、決断を急ぐことだけを思考停止として扱うのは全く卑怯な議論です。以前に自分が書いた記事を思い出しましたが、『多数派批判の記事』でも内田氏の意見は、<少数派>のリスクや<多数派>のメリットには触れず、<多数派>そのものをリスクと評するような内容でした。「多数派のみへの批判」といい、「拙速のみへの批判」といい、片面だけを扱うのは卑怯な論法だと思います。

 片面の選択だけを扱い、無根拠に不安を煽る意見は信頼されるものではありません。早急な改革を叫べば「歴史のゴミ箱」に投じられるという脅し方は、カルト教団のマインドコントロールが捻り出す「呪い」と同じものです。説得できない相手に対して、精神状態を責める「呪い」を書き連ねるのは、2ちゃんねるなどのネット世界に溢れるアンチ同士の差別合戦と変わりません。橋下改革への批判が、漠然とした不安を煽る「呪い」だらけに終始しているのは、既得権闘争や世代間闘争にすぎないという証明なんでしょう。

 このように橋下批判を続けていらっしゃる内田氏ですが、なぜかネットのルール批判がお好きなようです。ネット不信を叫びながら、自らが批判しているネット世界の慣習に順応してしまっている姿は、とても滑稽に映ります。

このままでは新聞もテレビも雑誌も情報の発信源としての信頼性の下落を食い止められないだろう。オルタナティブとしてのネットについても、私の見通しはあまり明るくない。ネットに繁殖している言葉の多くは匿名であり、情報源を明らかにしないまま、断定的な口調を採用している。ネットは実に多くの利便性をもたらしたが、それは「匿名で個人を攻撃をするチャンス」を解除した。今ネット上に氾濫している言葉のマジョリティは見知らぬ他人の心身の耗弱をめざすために発信される「呪い」の言葉である。呪いの言葉がこれほど空中を大量に行きかったことは歴史上ないと私は思う。

 上記の引用のとおり、ネット世界の攻撃的な発言を批判されていますが、内田氏自身の大衆蔑視(ポピュリズム批判)自体も橋下支持者への「呪い」であり、対立意見をもつ者への差別攻撃になっていると思います。橋下支持者を同じ境遇の人間とは認識しないことから始まり、哀れみの態度から不安を煽ってマインドコントロールしようとするが、何が失われるリスクなのかを明示しない。単なるネガティブキャンペーンしかやってないのに、橋下支持者を心配しているという態度を示そうとする。まさしく、嫌っているであろう2ちゃんねるレベルの発言と同レベルなのに、上から目線なのが笑えてしまいます。
 
 ネット上で名前を出して語ったところで、橋下支持者の心が病んでいるなどの人格批判であれば、心身耗弱をめざすために発信される「呪い」の掛け合いと同じです。ネットの攻撃性というものは、匿名性の問題ではなく、対立意見の人格に執着することで発生します。内田氏の反ハシズム言論も、「徒党を組んで橋下氏を攻撃をするチャンス」を狙ったもので、「ノイジーパフォーマンス」に過ぎないのですが、自らの発言はネット標準の「ノイジー」なものとは思ってないようです。「ノイジーマジョリティ」や「ノイジーマイノリティ」は、対立意見の本質内容ではなく、対立意見の人格に向けるので、「煩いノイジー」が実現できるのであり、内田氏も立派な「ノイジーパフォーマー」なのです。

 内田氏の橋下氏に対する「ノイジー攻撃」は、ネット上のオルタナティブとして十分に機能しています。「独裁するなというヤツほど独裁したがっている」という利権支配の論理がしっかり伺えます。これからも、自分たちが「古いシステム」と一緒に「歴史のゴミ箱」に投じられるハイリスクの警鐘ノイズを垂れ流し続けて欲しいものです(笑)。

サイバー空間に見られる『場の臭気』

 個人情報や位置情報などに囚われないサイバー空間においては、顔の表情はもちろん、参加者の立ち位置が全く伺えません。参加者の立ち位置が分からない状況で、サイバー空間にてコミュニケーションを図ろうとすると、ある種の偏見が必要になります。その偏見が『場の臭気』というものです。

 『(強烈な)キャラクター』を演出する『場の臭気』の記事に説明がありますが、場と場のギャップを示すのが『場の臭気』になります。

 共有するものが不明瞭なサイバー空間は、偏見によって棲み分けているといっても過言ではありません。信用を築くつもりがないサイバー空間では、思ったことをそのまま切り出して発言する場所となってしまい、リアルでは発言できない表現が溢れてしまいます。

 しかしながら、リアル社会には見られない過激な発言が、本心をそのまま表現したものとは限りません。サイバー空間で書き込まれる言葉は、顔の表情を伴わない表現なので、どこまで本音の感情なのかは不明です。リアル社会で嘘をついてしまうように、悪ノリゆえの本音ではない発言という場合もありうると思います。気ままなサイバー空間であっても、その空間なりの常識や体制から解放されたわけではなく、一定の社会原理が働いているわけです。

 その場限りを楽しむサイバー空間には、明示されたルール以外に、コンテキストが支配する「場の摂理」があります。「場の摂理」が合わないと、周りから浮いてしまうどころか、自分自身も楽しめなくなるので、コンテキストの相性を見極めます。この見極めが偏見以外では成り立たないのであり、「腐女子臭」、「ヲタ臭」、「はてな臭」などの臭気差別で表現されるわけです。

 『場の臭気』という表現が、ネガティブな差別と受け取る人も多いでしょうが、人間社会の本質にすぎません。リアル社会では、信用や共有ありきの人間関係なので、個人の差別的感想は排除されます。気ままな感想ではなく、人間関係継続の意識が先立つので、差別は合理的に正統化された正義という形だけを認めようとするわけです。この正義も、その場に合ったものだけであって、個人の政治的発言などは排除されるのが通常です。あれこれと差別することは無意義であり、曖昧に妥協し続けることが不可欠となるので、リアルな人間関係には、好き嫌いを排除する意識が不可欠となります。

 一方、サイバー空間では、感想ありきなので、合理性をあまり意識する必要はなく、発言が楽しめる場所を選び続けます。自分に合う場所かどうかは、明確な合理性よりも、感想が感覚に合うかどうかで判定されています。好き嫌いを過剰に表現することが楽しみとなり、こうした状況を嗅覚で表現したのが『場の臭気』になるわけです。

 「嫌なら見るな」の論理で動くサイバー空間に限れば、過激過剰に言いたい放題を楽しむ場所にすぎないのであって、感覚的な差別で棲み分けが形成されるのが必然です。偏見による表現は、サイバー空間の棲み分けを促す標識にすぎないのですが、こうした標識を過剰に嫌う人もいるようです。

 論理先行の棲み分けも、宗教やイデオロギーなどの観念論というある種の偏見で形成されているのであって、「偏見なくして人間社会なし」なのですが、理性を強調する人は気づかないんでしょうね。。。

ライ・トゥ・ミーを見て、「微表情」が怖くなった


海外ドラマ『ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間』観たい!
『ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間』第1話の感想を教えてください


 『ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間』は、とても斬新な作品だと思います。「微表情」という0.2秒未満の表情を根拠に、推理を展開していくサスペンス・ストーリーなのですが、ここまで表情や仕草に注視する作品を、私は他に知りません。普通のサスペンスは、登場人物の発言や行動の不自然さをきっかけにするので、矛盾などを浮き上がらせるための状況描写が多くなります。一方、『ライ・トゥ・ミー 』の場合は、登場人物の発言や行動ではなく、表情や仕草の瞬間映像を扱うだけで推理ができます。

 心理分析による推理は、登場人物のプロファイルデータにたよるストーリーになるのですが、『ライ・トゥ・ミー 』は、相手の表情を読み取って裏づけを図るので、事件現場の物証をかき集めるプロセスが驚くほど少なくなってます。一話の中で二つの事件を解決できるほどの展開力は、事件現場や登場人物などの情景描写が少なくしているからです。

 第1話でも、一つ目の事件の合間に新メンバーを空港で勧誘して、その新メンバーが並列進行している別の事件で早くも大活躍するという勢いある展開には圧巻です。登場人物の感情が排除され、まるで議論によって話が進行しているかのようです。日本との文化ギャップのせいかもしれませんが、登場人物のほとんどがクールな印象を受けました。

 心理分析の対象である「微表情」を中心にするにすれば、立ち位置によって登場人物の感情を際立たせる演出構成は必要ないのでしょう。登場人物は、覗き込む表情と覗き込まれる表情が大半を占めていますが、そのおかげで視聴者は心理分析モードを楽しみやすくなっています。意識された表情よりも、「無意識に出てしまう微表情」をテーマにする物語の登場人物は客観モードがぴったりです。

 この『ライ・トゥ・ミー 』で説明される「微表情」の分類には納得仕切りです。「微表情」が判ってしまえば、あらゆる反射的感情が判ってしまうという基本的な説明は真理だと思います。もちろん、『ライ・トゥ・ミー 』の中での無理やりな推理までを受け入れるわけではありませんが、「意識する前の微表情」に真実があるというのは疑いようがありません。

 実生活でも、「あっ、変な表情が・・・」というのは多々あります。かといって、一瞬しか現れない微妙な表情を確信を持って判別するのは中々出来ません。やはり、意味や意識ばかりが尊重される文明社会で生きると、表情を読み取る力が退化するのでしょうか。カメラでも無ければ、「微表情」に気づいても、相手の表情が何をきっかけにしたものかまで検証するのは不可能に近いはずです。

 しかし、ドラマでやってたようにカメラで相手の表情を保存できれば、「微表情」によって心理分析するのは可能なはずです。さらに、カメラ&コンピュータの時代が進めば・・・いやー恐ろしいですね(笑)

ネット時代に、教育者の独善は生き残れない

 恒例にの内田樹氏の記事「教育基本条例再論(しつこいけど)【内田樹の研究室】」を扱います。ブログテーマとは離れるばかりですが、真逆の考え方だから、つい反応してしまいます(笑)

メディアでも、教育基本条例の区々たる条文についての反論は詳しく紹介されるが、私のようにこの条例を起草した人間の教育観(「学校は市場に安くて使いでのある人材を供給する工場である」)そのものに反対する立場は紹介されることがない。それはメディア自身がそのような教育観に同意しているからである。いや、いまさら否定しても無駄である。

「大学淘汰」の状況をおもしろおかしく報道した新聞がどれほど堂々と「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と語っていたか、私は忘れていない。メディアは「競争力のない企業は市場から退場すべきだ」というビジネスルールをそのまま学校に適用して、「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と書いた。この能力主義的命題が実は「競争力のない子供は市場から退場すべきだ」という命題をコロラリーとして導くことにメディアの人々は気づいていなかったのだろうか(気づいていなかったのだと思う)。

そもそもメディアで発言している人々のほとんど全部は自分のことを「社会的成功者」だと思っている。彼らは「成功者とみなされている人々は偶然の僥倖によってたまたまその地位にいるにすぎない」という解釈よりも、「際だった才能をもっている人間は選択的に成功を収める」という解釈を採用する傾向にある。そのような自己理解からは「われわれの社会は能力主義的に構造化されており、それは端的に『よいこと』である。じゃんじゃんやればよろし」という社会理解が導出されるに決まっている。つまり、私たちの国では、能力主義的な社会の再編が失敗し、その破局的影響があらゆる分野に拡大しているにもかかわらず、そのことを指摘する人間が「どこにもいない」という痛ましい事態が現出しているのである。

 とりあえず、学問的意欲と能力主義は関係ないので、大学淘汰の問題?は置いといて、教育界の能力主義について考えます。結論から言うと、教育界の能力主義は当然であり、グローバル経済に関係なく、日本社会の要求だから素直に受け入れるべきものだと思います。

 教育への政治介入問題でいつも腹立たしいのは、教師達自らが日の丸君が代反対などの政治扇動で混乱させておきながら、対する行政の政治介入に執拗に反対する態度があることです。まるで、自分が支持するイデオロギーを刷り込むことが、教師としての生きがいとばかりに、偏向教育を行う教師がいるのは、教育界の退廃以外の何者でもありません。かと言って、教育界の能力主義で、教育界の退廃を改善しようと思っているわけではなく、単に社会のニーズに応えるサービス業という形こそが教育界の理想だと考えるのが私の立場です。

 戦前教育の反省は、民主主義を教えなかったこと以外には何があるのでしょうか。民主主義さえ教えれば、その他の思想教育は何でもありなはずです。逆に言えば、民主主義以外の思想教育は学校に求められていないだと思います。学校教育で求められるのは、団体行動やコミュニケーション能力などの躾につながるものであって、精神年齢的に分かりにくい抽象的な思想教育は功能がありません。

 ヒューマニズムなどの思想が大事だと思うのであれば、私立の学校でやればいい話です。自分の人生を振り返っても、学校での思想教育が重要だとは全く思いません。ネット社会の現代において、教師が政治的暴走を抑止するかのような論理は非現実的です。教育者が社会の良心であるかのような論理には、怠慢や傲慢さが潜んでいるとしか感じ取れません。

 教師が聖職者である役割は完全に終わったのだと思います。教師が、子供に堂々と教えるのために必要なのは、社会が求める時代的要求(ニーズ)に忠実に応える態度です。それは、時代が求める社会像を根拠にした指導であって、独善的な理想を根拠にした道徳的な押し付け指導ではありません。教師は、自分の理想ではなく、社会の要請に応えて仕事をするサービス業でなければならないのです。

 そして、サービス業である教師に求められるのは、市場原理で評価できるリーダーシップ能力や講義能力であるはずです。教師の徳性は、聖人ぶりではなく普通の人格ぶりであるべきで、一言で周りを黙らせるような、役者気取りの独善は必要ありません。一般のビジネスマン同様に、自分の考えは抑制しなければならないのであって、発揮するべきは市場原理で評価されうる能力なはずです。

 子供が、理想として学ぶ対象は、近くにいる学校の教師よりも、自ら発見する遠くの偉人であることが多いはずです。つまり、政治介入を恐れるような思想教育自体が不要なものでしかないのです。知識人の権威さえも危うくするネット時代において、教育者の独善を語るのは滑稽でしかありません。。。

ネットで盛り上がらないテーマでデモは起こらない

 ここのブログテーマとはあまり関係ないのですが、何度も取り扱ってきたのまたやります。「格差と若者の非活動性について(内田樹の研究室)」への感想です。「ここに転載して、諸賢のご叱正を乞うのである。」というフレーズどおり、、今回の内田氏の記事には、若者に歩み寄って考えようとする姿勢が伺えて、感銘を覚えました。

 ネット空間におけるノイジーな若者を批判し続けてきた内田氏にとっても、若者が格差反対デモをしないのは不思議なのでしょう。

今の日本の若者たちが格差の拡大に対して、弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。

弱者たちの権利請求のうちに「能力のないもの、努力を怠るものと格付けされたものであっても、人間としての尊厳を認めるべきだ」という言葉はほとんど見ることができません。比較的戦闘的な反格差論者が口にするのは「バカで強欲な老人たちが社会的資源を独占し、若者たちは能力があり、努力をしているにもかかわらず格付けが低い。これはフェアではない」というものです。それは「能力がなく、努力もしていない人間は(老人であれ若者であれ)低い格付けをされるのは当たり前だ」という「イデオロギー」に対する暗黙の同意を言外に含んでいます。彼らは連帯を求めているわけではなく、「社会のより適切な能力主義的再編」を要求しているのです。

 イデオロギー論としては全くそのとおりだと思います。「能力主義的再編」を望むのであれば、格差反対デモをやる連帯は広がりません。若者は、格付けが当たり前の社会に生きていますから、格付けを否定するようなデモには参加しないのでしょう。さらに、日本での格差は、保護された産業や公務員などにあるので、格差是正を求める発想は自由競争の論理につながっていきます。

 若者が、格差反対デモで連帯しないのは、ただ思想が無いからにすぎないのではないでしょうか。韓流抗議デモが、あれだけ盛り上がるのだから、連帯の思想がゼロな分けではないと思います。むしろ、団塊世代の「連帯」は、若者が軽蔑する対象です。平和ボケ妄想の連帯であり、若者や地方のことを全く無視した結果が、若者疲弊・地方衰退社会です。鳩山由紀夫氏の「友愛=連帯」などは、国内ではなく「東アジアとの連帯」になってしまっています。団塊世代の「連帯」の重要性を訴えられても、若者から冷笑されるだけではないでしょうか。

 反原発デモや韓流抗議デモが起こるのは、ネットで盛り上がった結果です。プロ市民ではない普通の国民によるデモは、ネットで盛り上がるような思想が不可欠です。反ウォール街デモに賛同したいイデオロギーをもったマスコミ人が、「なぜ若者はデモをしないのか」という疑問を抱く姿はとても滑稽に思えます。

『点取占い』の挿絵は、占われる存在と離れたシュールさを表現する

 主語もなければ「バーナム効果」もない『点取占い』の記事で、血液や生年月日などで占われる存在を特定しない『点取占い』の特徴を書かれていますが、占われる存在を特定させないシュールさは、占いに描かれた挿絵も大きな役割を果たしていると思います。

 『点取占い』の挿絵は、描かれているものとそうでないもんがありますが、その基準については不明です。ただ、傾向として見れるのは、「情景が見えない占い」は、挿絵がないようです。


 このような情景が見えない占いは、対象や目的などを提示していないので、誰にでも当てはまります。よほど強い信仰心がなければ、「バーナム効果」は発生しないでしょう。

 一方、「情景を絵にした占い」には、対象や目的に加えて表情までも挿絵に描かれています。


 これらの挿絵を見ると、タッチが古いゆえに、占われる存在としての意識を遠ざけて、シュールな世界をイメージされてしまいます。『点取占い』がシュールといわれる理由は、こうした挿絵の持つイメージ想起力の強さにあるのではないでしょうか。

 『点取占い』のアレンジバージョンが見受けられますが、メインは短文の内容よりも挿絵を変えることにあるようです。挿絵によって、投影するキャラ、想定するシーンなどが変えられ、表現の幅が広がるのでしょう。

 こう考えると、「点取り方式(テントリックス)」の短文表現は、まだまだ大きな可能性を持っているように思います。