辺境に潜むネット批判者による「ノイジーパフォーマンス」

 先の大阪市長選挙で敗れた平松邦夫氏の大阪市長特別顧問であった内田樹氏が、辺境でネット不信を叫んでいらっしゃるようです。 「『辺境ラジオ』で話したこと(内田樹の研究室)」を読むと、いつもながらの上から目線で、若者の味方を装った偽善的批判を展開しています。選挙で敗れた恨み節が相俟って、橋下徹氏の支持者までも精神的に病んでると言いたいようです。反ハシズムで論陣を張った批判内容の方が、ネットの罵倒レベルそのものであり、反ハシズムの方がよっぽど病んでいると思うんですが、可笑しいのはいつも騙される大衆の方らしいです(笑)。

政治過程の劣化はすさまじいが、これまでそれなりに(ぎりぎり)合理的にふるまってきたように経済活動についても、ビジネスマンたちの思考は混濁し、5年10年というスパンについて見通しを述べられる状態にない。思考停止している人間の特徴はすぐに「待ったなし」と言うのでわかる。「待ったなし」というのは「選択肢の適否について思考する時間がない(だから、とりあえず一番でかい声を出している人間の言葉に従う)」ということしか意味していない。

名越先生が昨日も指摘されていたが、抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は必ず間違う」という心理学的経験則に従うなら、ネット上で攻撃的な口調で語られている言明のほとんどは構造的に間違っていることになる。誤解して欲しくないが「間違う」というのは、その時点での整合性の欠如や論理の破綻やデータの間違いのことではない(そういう場合も多々あるが)。そうではなくて、「間違った言葉」というのは結果的にその言葉を発した人間を不幸な生き方へ導く言葉のことである。抑鬱的な気分の中で、攻撃的に口にされた言葉は事実認知的に「間違っている」のではなく、遂行的に「間違っている」のである。

「ゆっくり考えている余裕なんかないんだよ。事態は待ったなしなんだ」と怒号する人々がきっといると思うけれど、彼ら自分たちが「古いシステム」と一緒に「歴史のゴミ箱」に投じられるハイリスクを冒していることに気づいた方がいいと思う。いや、ほんとに心配してるんです。


 引用部分のとおり、大阪都構想における是々非々の議論を訴えるならまだしも、橋下徹氏を支持する大衆が病んでいるというご意見です。既存の制度を変えたいという大衆の思いが、抑鬱的かつ攻撃的な気分にすぎないという解釈には甚だ疑問なのですが、仮に抑鬱的かつ攻撃的な気分であったとしても、抑鬱状態の判断が必ず間違うのでしょうか。
 
 「抑鬱状態でのあらゆる判断が不幸な生き方しかもたらさない」という呪い文句は、自主性を奪うマインドコントロールにすぎません。もし継続断念の判断までも不幸な生き方だというのであれば、人は抑鬱状態から自力回復できないということになってしまいます。抑鬱状態を克服するには、勇気を持って継続断念の選択を決断する以外ありません。逆に、抑鬱状態で中途半端に継続するからこそ、手抜きなどの失敗が増えてしまって、間違いだらけの結果をもたらします。

 抑鬱状態の自力判断を急いだ方が良い場合もあるかもしれませんし、拙速な継続断念によって多くのものを失ったとしても、「古い習慣」から解放されることで、以前よりも束縛のない判断が出来るようになるかもしれません。「抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は必ず間違う」という法則は、継続の中での判断に適用できても、「古い習慣」をまるごと放棄するような継続断念の判断にも必ず適用できるとは限らないと思います。「抑鬱状態である大衆は何も判断すべきではない」とでも言いたいのでしょうか。

 「思考停止している人間の特徴は待ったなし」という法則も然りです。「先送りで何もしないのも思考停止」であるはずなのに、決断を急ぐことだけを思考停止として扱うのは全く卑怯な議論です。以前に自分が書いた記事を思い出しましたが、『多数派批判の記事』でも内田氏の意見は、<少数派>のリスクや<多数派>のメリットには触れず、<多数派>そのものをリスクと評するような内容でした。「多数派のみへの批判」といい、「拙速のみへの批判」といい、片面だけを扱うのは卑怯な論法だと思います。

 片面の選択だけを扱い、無根拠に不安を煽る意見は信頼されるものではありません。早急な改革を叫べば「歴史のゴミ箱」に投じられるという脅し方は、カルト教団のマインドコントロールが捻り出す「呪い」と同じものです。説得できない相手に対して、精神状態を責める「呪い」を書き連ねるのは、2ちゃんねるなどのネット世界に溢れるアンチ同士の差別合戦と変わりません。橋下改革への批判が、漠然とした不安を煽る「呪い」だらけに終始しているのは、既得権闘争や世代間闘争にすぎないという証明なんでしょう。

 このように橋下批判を続けていらっしゃる内田氏ですが、なぜかネットのルール批判がお好きなようです。ネット不信を叫びながら、自らが批判しているネット世界の慣習に順応してしまっている姿は、とても滑稽に映ります。

このままでは新聞もテレビも雑誌も情報の発信源としての信頼性の下落を食い止められないだろう。オルタナティブとしてのネットについても、私の見通しはあまり明るくない。ネットに繁殖している言葉の多くは匿名であり、情報源を明らかにしないまま、断定的な口調を採用している。ネットは実に多くの利便性をもたらしたが、それは「匿名で個人を攻撃をするチャンス」を解除した。今ネット上に氾濫している言葉のマジョリティは見知らぬ他人の心身の耗弱をめざすために発信される「呪い」の言葉である。呪いの言葉がこれほど空中を大量に行きかったことは歴史上ないと私は思う。

 上記の引用のとおり、ネット世界の攻撃的な発言を批判されていますが、内田氏自身の大衆蔑視(ポピュリズム批判)自体も橋下支持者への「呪い」であり、対立意見をもつ者への差別攻撃になっていると思います。橋下支持者を同じ境遇の人間とは認識しないことから始まり、哀れみの態度から不安を煽ってマインドコントロールしようとするが、何が失われるリスクなのかを明示しない。単なるネガティブキャンペーンしかやってないのに、橋下支持者を心配しているという態度を示そうとする。まさしく、嫌っているであろう2ちゃんねるレベルの発言と同レベルなのに、上から目線なのが笑えてしまいます。
 
 ネット上で名前を出して語ったところで、橋下支持者の心が病んでいるなどの人格批判であれば、心身耗弱をめざすために発信される「呪い」の掛け合いと同じです。ネットの攻撃性というものは、匿名性の問題ではなく、対立意見の人格に執着することで発生します。内田氏の反ハシズム言論も、「徒党を組んで橋下氏を攻撃をするチャンス」を狙ったもので、「ノイジーパフォーマンス」に過ぎないのですが、自らの発言はネット標準の「ノイジー」なものとは思ってないようです。「ノイジーマジョリティ」や「ノイジーマイノリティ」は、対立意見の本質内容ではなく、対立意見の人格に向けるので、「煩いノイジー」が実現できるのであり、内田氏も立派な「ノイジーパフォーマー」なのです。

 内田氏の橋下氏に対する「ノイジー攻撃」は、ネット上のオルタナティブとして十分に機能しています。「独裁するなというヤツほど独裁したがっている」という利権支配の論理がしっかり伺えます。これからも、自分たちが「古いシステム」と一緒に「歴史のゴミ箱」に投じられるハイリスクの警鐘ノイズを垂れ流し続けて欲しいものです(笑)。