ネットで盛り上がらないテーマでデモは起こらない

 ここのブログテーマとはあまり関係ないのですが、何度も取り扱ってきたのまたやります。「格差と若者の非活動性について(内田樹の研究室)」への感想です。「ここに転載して、諸賢のご叱正を乞うのである。」というフレーズどおり、、今回の内田氏の記事には、若者に歩み寄って考えようとする姿勢が伺えて、感銘を覚えました。

 ネット空間におけるノイジーな若者を批判し続けてきた内田氏にとっても、若者が格差反対デモをしないのは不思議なのでしょう。

今の日本の若者たちが格差の拡大に対して、弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。

弱者たちの権利請求のうちに「能力のないもの、努力を怠るものと格付けされたものであっても、人間としての尊厳を認めるべきだ」という言葉はほとんど見ることができません。比較的戦闘的な反格差論者が口にするのは「バカで強欲な老人たちが社会的資源を独占し、若者たちは能力があり、努力をしているにもかかわらず格付けが低い。これはフェアではない」というものです。それは「能力がなく、努力もしていない人間は(老人であれ若者であれ)低い格付けをされるのは当たり前だ」という「イデオロギー」に対する暗黙の同意を言外に含んでいます。彼らは連帯を求めているわけではなく、「社会のより適切な能力主義的再編」を要求しているのです。

 イデオロギー論としては全くそのとおりだと思います。「能力主義的再編」を望むのであれば、格差反対デモをやる連帯は広がりません。若者は、格付けが当たり前の社会に生きていますから、格付けを否定するようなデモには参加しないのでしょう。さらに、日本での格差は、保護された産業や公務員などにあるので、格差是正を求める発想は自由競争の論理につながっていきます。

 若者が、格差反対デモで連帯しないのは、ただ思想が無いからにすぎないのではないでしょうか。韓流抗議デモが、あれだけ盛り上がるのだから、連帯の思想がゼロな分けではないと思います。むしろ、団塊世代の「連帯」は、若者が軽蔑する対象です。平和ボケ妄想の連帯であり、若者や地方のことを全く無視した結果が、若者疲弊・地方衰退社会です。鳩山由紀夫氏の「友愛=連帯」などは、国内ではなく「東アジアとの連帯」になってしまっています。団塊世代の「連帯」の重要性を訴えられても、若者から冷笑されるだけではないでしょうか。

 反原発デモや韓流抗議デモが起こるのは、ネットで盛り上がった結果です。プロ市民ではない普通の国民によるデモは、ネットで盛り上がるような思想が不可欠です。反ウォール街デモに賛同したいイデオロギーをもったマスコミ人が、「なぜ若者はデモをしないのか」という疑問を抱く姿はとても滑稽に思えます。