サイバー空間に見られる『場の臭気』

 個人情報や位置情報などに囚われないサイバー空間においては、顔の表情はもちろん、参加者の立ち位置が全く伺えません。参加者の立ち位置が分からない状況で、サイバー空間にてコミュニケーションを図ろうとすると、ある種の偏見が必要になります。その偏見が『場の臭気』というものです。

 『(強烈な)キャラクター』を演出する『場の臭気』の記事に説明がありますが、場と場のギャップを示すのが『場の臭気』になります。

 共有するものが不明瞭なサイバー空間は、偏見によって棲み分けているといっても過言ではありません。信用を築くつもりがないサイバー空間では、思ったことをそのまま切り出して発言する場所となってしまい、リアルでは発言できない表現が溢れてしまいます。

 しかしながら、リアル社会には見られない過激な発言が、本心をそのまま表現したものとは限りません。サイバー空間で書き込まれる言葉は、顔の表情を伴わない表現なので、どこまで本音の感情なのかは不明です。リアル社会で嘘をついてしまうように、悪ノリゆえの本音ではない発言という場合もありうると思います。気ままなサイバー空間であっても、その空間なりの常識や体制から解放されたわけではなく、一定の社会原理が働いているわけです。

 その場限りを楽しむサイバー空間には、明示されたルール以外に、コンテキストが支配する「場の摂理」があります。「場の摂理」が合わないと、周りから浮いてしまうどころか、自分自身も楽しめなくなるので、コンテキストの相性を見極めます。この見極めが偏見以外では成り立たないのであり、「腐女子臭」、「ヲタ臭」、「はてな臭」などの臭気差別で表現されるわけです。

 『場の臭気』という表現が、ネガティブな差別と受け取る人も多いでしょうが、人間社会の本質にすぎません。リアル社会では、信用や共有ありきの人間関係なので、個人の差別的感想は排除されます。気ままな感想ではなく、人間関係継続の意識が先立つので、差別は合理的に正統化された正義という形だけを認めようとするわけです。この正義も、その場に合ったものだけであって、個人の政治的発言などは排除されるのが通常です。あれこれと差別することは無意義であり、曖昧に妥協し続けることが不可欠となるので、リアルな人間関係には、好き嫌いを排除する意識が不可欠となります。

 一方、サイバー空間では、感想ありきなので、合理性をあまり意識する必要はなく、発言が楽しめる場所を選び続けます。自分に合う場所かどうかは、明確な合理性よりも、感想が感覚に合うかどうかで判定されています。好き嫌いを過剰に表現することが楽しみとなり、こうした状況を嗅覚で表現したのが『場の臭気』になるわけです。

 「嫌なら見るな」の論理で動くサイバー空間に限れば、過激過剰に言いたい放題を楽しむ場所にすぎないのであって、感覚的な差別で棲み分けが形成されるのが必然です。偏見による表現は、サイバー空間の棲み分けを促す標識にすぎないのですが、こうした標識を過剰に嫌う人もいるようです。

 論理先行の棲み分けも、宗教やイデオロギーなどの観念論というある種の偏見で形成されているのであって、「偏見なくして人間社会なし」なのですが、理性を強調する人は気づかないんでしょうね。。。