言論人に向けられるアンチは「呪い」扱い

内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか(『現代ビジネス』)

 内田樹氏がお決まりの呪詛批判をまとめて本になさったようです。ネット嫌いの方に支持されるんでしょうかね。辺境に潜むネット批判の記事と同じように、ネット批判は精神的に病んでいるというご主張です。

 内田樹氏自身が展開する批判は健全な精神の下にあり、内田氏が好まない多数派による批判は抑鬱的な精神状態にあるというのが、内田樹氏のネット議論に対する認識のようです。この偏見とも呼べる分別が基盤となっているのですが、香山リカ氏も似たようなことを言っているようです。

 人を精神的に病んでいるというレッテルによって批判するのは、思想信条への冒涜のような気がするんですが、反ハシズム側の人間には、精神論を軸にした批判がお好きなようです。

呪いは強烈な破壊力を持っています。だから、呪いを発した人間は強い全能感を覚えます。呪いに人々が惹きつけられるのは、破壊することの方が、創造することよりもはるかに簡単だからです。

破壊する立場にある限り、どれほど社会的に非力な人間であっても、劇的な効果を経験できます。自分の手で人々が大切にしてきたもの、敬意を抱いたり、愛着を持っていたものを叩き壊すことができる。それは強烈な快楽をもたらします。

破壊する側にいさえすれば、どんな上位の相手とでも五分に渡り合えます。いや、五分以上の優位に立てる。自分よりはるかに年長で、社会的地位もある人間を傷つけることができる。この全能感に、若者たちはたやすく嗜癖(特定の行動や物質に過度に依存すること)してしまいます。

一度、呪いの言葉を吐きかけて、それによって他人が生命力を失い、あるいは営々として築かれてきた制度が瓦解するのを見たら、人間はもうその全能感から逃れられなくなる。その快楽なしではいられなくなってしまうのです。麻薬のようなものです。

 既存体制の破壊を期待する若者の言動は“麻薬のようなもの”らしいです。 “宗教はアヘン”であるとでも信じていらっしゃるのでしょうか。上から目線で若者の味方を装って、不満を持つことが悪いことのように誘導するいつものパターンです。

 コスモセントリズムの記事で触れましたが、破壊によって得する人と損する人の欲望は等しく醜いものですし、既存のコスモス(秩序)が破壊されれば、混迷のカオスが来るというのは短絡的な脅迫です。“破壊することの方が、創造することよりもはるかに簡単”と仰っていますが、これは自然発生的に生まれたものに限って当てはまる法則であって、コスモスを築く政治制度の場合は、創造と破壊が同義的であることがほとんどでしょう。

 人知れず“崩壊”するものには目をくれず、「スクラップ&ビルド」だけを“破壊”と呼ぶ議論も、“記号化(呪い)”レベルにすぎません。具体例を挙げて説得するわけでもなく、徳ある精神論でアンチを封じ込めようとする態度の方がカッコ悪いと思うんですがね。

攻撃性が野放しになった理由の一つは、自尊感情が満たされることを、人々があまりに求めすぎているからです。多くの人は、自己評価と外部評価の間に歴然とした落差があります。自己評価は高くても、周りは誰もそれを承認してくれない。この評価の落差が人々を不安にしています。

かつては家庭でも学校でも、子どもには「身の程を知れ」「分際をわきまえろ」という教育がなされました。他者との関わりの中で自分に何ができるか、何が期待されているかを基盤にして、自己評価を組み立てるようにと教えたのです。

 自己評価と外部評価の落差についても触れてらっしゃいますが、これは教育職員の評価についても適用して欲しいものですね(笑)。反ハシズム側の人間には、「自らの道徳を教条的に語るのが教育である」と考えている人が多くいらっしゃいます。「何が期待されているかを基盤にして自己評価を組み立てる」ように指導していただきたいものです。まさか、教師はあらゆる評価を免除される万能な聖職者だというお考えをお持ちなはずはないでしょうからw

 私の書いたような記事が、「異常なまでに攻撃的な人」として“記号化”されるんでしょうが片付けられるんでしょうが、言論人がこれを言うのは自己否定にならないんでしょうか。

 批判する人は、必ず批判される。そして、批判されるから存在意義がある。

 自分が好まない批判を、「記号化の過剰(呪い)」とか呼ぶほうがどうかしてるぜぇ〜w