呪詛する【言付け】コミュニケーションには価値がないのか?

 はてなブックマークの人気記事にネット上の発言の劣化について (内田樹の研究室)がありました。

 記事の趣旨は、匿名のネット世界だと、議論ができずに「情報の検証力」が不足するので、情報の悪い情報しか集まらないという理屈です。「情報の検証力」を低下させるのが、言論の自由の場の尊厳を踏みにじることであり、そうした賛同できない発言への攻撃を「呪詛」と称しています。


 「情報の検証力」には、議論を活性化する「言論の自由」が必要なのは当然ですが、それが全ての答えではありません。「議論することが全てだ」という論理は、恣意的に使われる言葉として警戒する必要があります。

 科学的な真実探究を望む議論を除くと、社会問題などの議論は、常に議論するメリットがあるかどうかによって、議論を望む意識は変わるはずです。「私はどんなことも等しく議論を望む」という人は間違いなく詐欺師です(笑)。絶対的な科学ではない限り、議論の優位さが社会を幸福に導くわけではありません。


 社会問題などの二元的議論は、気に入らない意見を否定排除するためにあるという前提が必ずあります。議論の質の高さは、知的関心の点からは重要ですが、結論を出す上ではさほど重要ではありません。 

 「事実の検証」は、議論する分野の情報の中身に拠りますし、分野を限定できない「思想の検証」に至っては、議論する情報が多岐に亘って、結局は自己満足を求めものになってしまいます。つまり、議論よりも「議論の元となる情報」によって、結論が左右されるということです。

 
 議論は結論の留保でもあります。よって、「議論が足りない」という論理は、体制を守る側にとってとても有効です。もちろん、不祥事のように責められるネタ情報が溢れている場合を除きますが、利になる情報ばかりを公開できる場合は、議論を進めた方が圧倒的に有利です。

 体制を守る側は、キレイゴトなどの建前を並べて、「善良さ」をアピールすることができるのだから、議論をすればするほど宣伝ができます。そして、議論を増やして結論を出す意欲を減退させることが出来るのです。


 もちろん、結論に慎重なのは良いことなのですが、大事なのは議論よりも〝結論〟です。短絡的な結論は良くないですが、〝結論〟を出して責任を負うことをしないで、「誰がやっても同じ」のような結論なき議論をことさら評価するのは間違いです。知的好奇心の観点からは、結論よりも疑い続ける議論の方を大事にしてしまうのでしょうが、その方が危険です。

 
 体制を守る側にとっては、結論を留保される方が有益です。逆に、改善を求める非体制側にとっては、結論を出す方が有益です。体制側かどうかでは説明不足なので新たな分別を加えると、守る立場の<性善説>を主張したい側にとっては、結論を留保するムードの方が有効であり、変える立場の<性悪説>を主張したい側にとっては、結論を拡散していくムードの方が有効なのです。

 国会などでは、新しい法案を通したくない側はいつも「議論が足りない」と結論の留保を求めますが、まさしくアノ状況です。
 
 
 あくまでも推測ですが、内田樹氏は2ちゃんねるツイッターで見られる攻撃的な結論が気に入らないのだと思います。それを遠回しに批判したのが、この参照記事であり、他人の発言を攻撃するネット世論は、結論ばかりで議論が足りないから質の悪い情報しか集まらないという論理になるのです。

 私は、結論ばかりを主張するのは悪いことではないと思います。他人の発言を攻撃するのも、議論を弾圧しているわけではありません。ネットの世界では、発言や議論ができる場所はいくらでも確保できます。内田樹氏が、自分の住んでいる知的情報環境を高級社会であると正当化するのは勝手ですが、この住み分けを情報階層化であり認めないとする主張は、断固拒否したいと思います。


 このダイアリーの趣旨である【言付け】から大きく離れてしまったので、情報階層化の部分にまで触れるのはやめますが、思いを託した結論ばかりを連呼する【言付け】コミュニケーションは大切です。

 結論ばかりを連呼するコミュニケーション空間は、極めて自然なことであって、劣化した情報ほど共有しやすいものです。今まで見えなかった情報の共有が見えただけというのが実態だと思います。

 とりあえず、人権擁護法(人権侵害救済法案)を支持するような「呪詛」封じの主張だけはご勘弁いただきたいものです。