理想ありきで考えると「連呼リアン」に陥る

 ネットの情報は結論を連呼するばかりの「連呼リアン」の巣窟だと思ってましたが、橋下市長が出演した『朝まで生テレビ!』を見て、マスコミにも多く見られることを実感しました。むしろ、自己完結的にパフォーマンスができるマスコミこそ、政策を妨害するだけの反体制「連呼リアン」を育ててきたのかもしれません。

 『朝まで生テレビ!』に出演した反ハシズムの論客は、「不安だ」「わからない」などを連呼して、橋下市長の政策を全否定していましたが、対案は全く提示していません。にもかかわらず、選挙結果という全体意志に対して、反対ありきの徹底介入を試みようとしています。マイノリティとしての立場であれば、少数の弱者保護などの要求に留めるべきなのですが、多数意志を「独裁」のレッテルで覆そうとする勢いで批判を展開する始末。

 敵を見立てて議論を煽るハシズムへの警鐘などと批判している人たちの方が、橋下徹市長を悪に見立てようと躍起になっており、政治をムードで動かそうとする逆転の構図もしっかり表れていました。反ハシズムの論客の思想宣伝は、イデオロギー的な既得権益を守ろうとするステルスマーケティングと見なすこともできるのですが、こういうサヨク思想家は「連呼リアン」と差別されるべき存在だと思います。

 「連呼リアン」は、体制に対して、とにかく反対を叫び続けるだけの人々です。そこには、思い込みによるカルト的な夢想が宿っています。「理想を持つのが大切だ」という立場から出発するので、こういうキチガイになってしまうんでしょう。橋下徹氏が「学者さん」と揶揄する人たちは、自分の理想に合わないから批判しているだけにすぎません。

 マスコミに見られる批判は、「道義的責任」や「道理的判断」などの道徳観に訴えるものが多いような気がします。原理原則や道徳などの観念論ありきで批判したがるので、現実認識の印象操作がいつも見られます。

 一方、ネットに見られる批判は、露骨な利害対立です。ある批判に対して、別の反論が必ず存在します。そして、不都合な批判に対して、レッテル貼りの「連呼リアン」が登場しているわけです。しかし、レッテル貼りを連呼することで印象操作の効果はほとんどないように思います。

 誰もが反論を投げかけられるネットの世界では、自己完結なパフォーマンスが不可能です。ゆえに、ネット上の「連呼リアン」はウザイだけの存在として蔑視されているのですが、リアルな市民運動にも似たようなものがあるというわけです。

 私がウザイと思う市民運動は、極端な結論で交渉しようとする団体です。実務的な中身が空っぽでも気にしませんし、他の人の意志(結論)は全く無視しています。自らの理想で社会を支配することしか考えないキチガイを封じ込めるのがネットの世界なのかもしれません。

 ネットの世界では、意見の相違が当然の状況から始まり、共感できるアイデアほど大きくつながっていきます。共有するのは、理想ではなく行動であり、「できることからはじめよう」の世界です。「理想を立てるのではなく、まず現実の問題を解決しよう」というソーシャルな発想が、「連呼リアン」を駆逐することを願いたいものです。