『託言』とは少し違う『託宣』

 『託宣』とは、言葉に託したものを広く行き渡らせることを言います。ありがたいお言葉の宣伝であり、宗教的な扱いの場合に用いる表現です。普及の意図を持って述べられた場合は【言付け】であるといえます。

 MacやiPhoneを愛するAppleファンの「宗教的反応」、BBCが科学実証という記事がありました。アップル社の製品の画像を見たときのアップル信者の脳の反応が、宗教信者に神の像を見せたときと同じだったそうです。

 そもそも、現実世界まで構成する宗教観を持つ西洋では、テクノロジーが宗教を脅かす存在という認識があるようです。死後や守り神の世界を扱う宗教観の日本人からすれば、次元が違うただのマニア宗教なんですが。

 ネットの世界では、マニア信者と批判者の対立構図がよく見られますが、その発端がマニア信者が崇拝する人である教祖の言葉だったりします。つまり、教祖の『託宣』を契機に論争が始まっているのです。アップルには、教祖たるスティーブ・ジョブズが居ますが、他メーカーには、熱狂的ファンが注目できる教祖的な人物は居ません。他メーカーにおいて、信者扱いのレッテルを貼って、論争したところでアップルみたいな宗教論争的な盛り上がりはできません。やはり、アップル信者は、ジョブズが居るから可能だと私は思っています。

 ネットで論争が盛り上がるには、『託宣』を述べられる強烈スターキャラの存在は不可欠です。【言付け】の意図はなく、単なる戯言や雑言として述べた言葉でも、いつ『託宣』に化けるかわからないのです。